琉球弧の歌謡を読む

沖縄、宮古、八重山の歌謡・古謡を現代語訳します

守姉の歌——《あがいざとぅ んなか(池間島)》

伊豆諸島や沖縄、宮古、八重山には守姉(もりあね)という子守りの形態があった。守姉というのは、賃労働としての子守りではなく、頼まれて他家の子守りをするというものであった。守姉をするのは、だいたい小学生くらいの女の子で、守りされる子どもは生後一カ月くらいから三歳くらいまでであった。

守子にとっての守姉は、「特別な人」あるいは「霊的な守護者」であり、その関係は生涯にわたって続くものであった。その関係性は、沖縄では兄弟姉妹同然とされ、宮古や八重山では兄弟姉妹以上に親密な関係性をもつものとされた。

守姉という子守りの形態は、「祖国復帰(1972年)」までは普通に見られるものであったが——現在でも多良間島などに残されているようであるが——、「祖国復帰」を境にして、社会の表面から急速に姿を消していった。(具志堅邦子「守姉という存在」沖縄国際大学大学院地域文化論叢第15号より)

《東里真中(あがいざとぅんなか)》は宮古各地で歌われる歌で、守姉の歌う子守り歌であった。八重山各地で歌われる《あがろーざ》も、同工異曲の歌だといえる。どの歌でも、蜜柑の木の下での子守りの情景が歌われているが、池間島の歌では、蜜柑の木の下での子守りが偶然によるものではなく、神話的内容を含むものであることを暗示する。

東の里というのが具体的な地名を意味しているのかは不明である。日の昇る方向くらいの意味でとらえてもよいのではないだろうか。八尋というのは、非常に長いこと、非常に広いことを意味する言葉だ。だから歌でうたわれる十尋の庭、八尋の庭というのはとても広い庭という意味になる。

蜜柑はシークヮーサー(橘)のことだとおもわれる。シークヮーサーは、まだ青くて酸味が強い時、芭蕉布をさらすのに用い、芭蕉布の色つやをよくするとされている。

大きな広場に植えられた蜜柑の木は、手入れによって、天に届くまでに成長する。そして蜜柑の木の下には、アサギ家(ヤー)が建てられる。アサギは、アシャゲ、メーヌヤー(前の屋)ともいわれ、離れ座敷の意味。アサギには神事に用いられる神アシャギもあり、神事を行なうアシビナー(遊び庭)に建てられる。この歌では、アサギの下に機織り機が据えられるのだから、アサギは通常の離れ座敷というよりも、高倉の構造をしていた可能性がある。

二十読み(ハタイン)というのは、絹糸のような極細上布のこと。これを織れる女性は少なく、二十読みの上布を織れることは、女性にとっての最高の名誉であったとされる。

これらのことを考えると、蜜柑の木の下で子守りするということは、二十読みの上布を織れるという女性にとっての最高の名誉を予祝されることにつながり、また神事を司る神女になるというライフステージも含まれているものとおもわれる。

 

子守する姉たち (1959年、波照間島) 「石垣市市史編集課編:八重山写真帖」より

 

歌の後半は家造りの話になる。

歌の中で、守姉の家が「倒れかけた家だから、傾きかけた家だから」というのは、守姉の家が中柱構造の掘立屋であったことを表している。鶴藤鹿忠『琉球地方の民家』(1972年、明玄書房)によると、「掘立屋は柱を2尺以上の深さ地中に埋めているので暴風のため家は傾いても倒れない」ということであった。

近代以前の民衆層の家屋は、一部富裕層を除いて、穴屋(アナヤー)と呼ばれる中柱構造の掘立屋であった。

穴屋(アナヤー) 沖縄において古代から按司時代(グスク時代)をへて戦前まで存続した掘っ立て小屋住居の呼称。……按司時代のころからは柱に礎石を用い、壁はチニブ(山原竹を網代のように編んだもの)を二重にし、なかに藁または茅を詰め、屋根はキチ(小丸太)で小屋組みをし、茅あるいは竹茅(篠竹)葺きにした。……王府時代の敷地家屋の制限令(1737)によって田舎百姓の住まいはおもにこの様式に限定され、昭和初期まで続いた。(又吉真三「穴屋(アナヤー)」『沖縄大百科事典』)

歌の中で、「二間の家〔の屋根〕を葺いてちょうだい、四間の家〔の屋根〕を葺いてちょうだい」というのは、支配階級や富裕層の家屋であった貫木屋(ヌチジヤー)と呼ばれる家を造ってちょうだいというお願いになる。

貫木屋(ヌチジヤー) 柱に貫孔(ぬきあな)をあけ、貫を通して楔(くさび)で締める構造の建物。この構造は、鎌倉時代に禅宗建築の導入とともに伝えられた、日本建築の古い形式であり、沖縄で木造建築といえばこの構造をさす。(鈴木雅夫「貫木屋(ヌチジヤー)」『沖縄大百科事典』)

穴屋では、家の間仕切りはカーテンなどで仕切るものだった。梁や桁を使う貫木屋の構造で、二間とか四間という間仕切りされた部屋ができるのである。

歌の中で、「戸を立てる、桁〔のある柱〕を立てる」とあるのは、貫木屋(ヌチジヤー)のことを指している。家が戸を立てる構造になるのは、貫木屋になってからのことだった。


《あがいざとぅ んなか》の出典は、外間守善・新里幸昭編『南島歌謡大成 3宮古篇』(1977年、角川書店)。カタカナで表記された中舌母音の「イ」は「ぅ」、「ジ」は「ずぃ」などのようにひらがなで表記した。

一段目の訳は出典訳で、二段目は私訳(具志堅 要)である。


あがいざとぅ んなか(池間島)

あがいざとぅんなかに
東の里の真ん中に、

よーい ほーい(囃子。以下略)

とのぐすぃくんなかに
トノグシク(東里の対句)の真中に、

よーちゅらよーさー またよいさー(囃子。以下略)

といろみゃーや あきとぅい やいるみゃーや あきとぅい
十尋の庭を開けて、八尋の庭を造成して、

といろみゃーぬ んなかん やいるみゃーぬ んなかん
十尋庭の真中に、八尋庭の真中に、

ふにらぎーや いびわーし かばしゃぎーや さしわーし
蜜柑の木を植えて、香ばしい木を差して、

いびからぬ みつぃつぃ さしからぬ ゆぬーりゃん
植えてから三月〔後に〕、差してからの一年〔後に〕、

いでぃまーり みりば とぅんまーり みりば
〔神女たちが〕巡回して見ると、立ち寄って見ると〔こう言った〕。

うぬふにりゃ うゆすぃや うぬかばしゃ うゆすぃや
「この蜜柑を植えたのは、この香ばしい木を植えたのは、

またたかり うゆりば ゆだたかり うゆりば
木の股が増えるから植えたのだ、枝が茂るから植えたのだ。

またや かき わーしわーし ゆだや ぶり わーしわーし
股を切ってワーシワーシ〔と伸ばすと〕、枝を折ってワーシーワシ〔と伸ばすと〕、

てぃんつぃきゃふ うゆりば ういつぃきゃふ うゆりば
天を突くまで伸びている。上(天上)を突くまで伸びている。」

ふにらぎーぬ すぃたーらん かばしゃぎぬ すぃたーらん
蜜柑の木の下に、香ばしい木の下に、

あさぎやーや ふきうとぅい すぃだすぃやーや ふきうとぅい
アサギ家(離れ座敷)〔の屋根〕を葺いて、涼しい家〔の屋根〕を葺いて、

あさぎやーぬ すぃたーら すぃだすぃやーぬ すぃたーら
アサギ家の下に、涼しい家の下に、

はたいんやーや たちうとぅい ぐまぬぬや たちうとぅい
二十(はた)読み〔の機織り機〕を仕立てて、〔目の〕細かい上布〔を織る機〕を仕立てて、

はたいんやーとぅ みじゅらい ぐまぬぬや みじゅらい
二十読みの機を眺めていたら、細上布の機を眺めていたら、

むらにたーな うぐなーり くがにたーな うぐなーり
守姉たちが集まってきて、黄金〔のような子ども〕たちが集まってきて〔言うことには〕、

うやぬふぁーぬ むらにや しゅーぬふぁーぬ むらにや
親(貴族)の子の守姉は、主(領主)の子の守姉は、

かたてぃしーや まいぬい かたてぃしーや たくぬてー
片手には米の握り飯、片手には蛸の手、

ぎすぃぬふぁーぬ むらにや んじゃぬふぁーぬ むらにや
下衆(平民)の子の守姉は、下男の子の守姉は、

かたてぃーしーや うふぎゃんさらぬい かたてぃしーや なまんすぃ
片手には黍の握り飯、片手には生味噌、

うやぬふぁーぬ なふてぃがーよ しゅーぬふぁーぬ なふてぃがー
親の子が泣くときには、主の子が泣くときには、

ふにば むりーんたばさ かばしゃ むりーんたばさ
蜜柑をもいでなだめよう、香ばしい実をもいでなだよう、

ぎすぃぬふぁーぬ なふてぃがー んじゃぬふぁーぬ なふてぃがー
下衆の子が泣くときには、下男の子が泣くときには、

あうじゃとぅい うどぅしば ますぃぎやとぅい うどぅしば
鞭を取って脅したら、棒を取って脅したら、

あてぃぬ かまらしゃんな どぅつぃぬ かまらしゃんな
あんまり悲しがっているので、とても悲しがっているので、

ふいやよーね ばんがうとぅ まいやよーね くがにうとぅ
泣かないでわたしの弟よ、泣かないで黄金の〔ような〕弟よ、

ばが むらば ばんがうとぅ あにぬ くがば くがにうとぅ
わたしが守(も)るからわたしの弟よ、姉が揺するから黄金の弟よ、

ういふにゃい とぅきゃんな たきふどぅ ういとぅきゃんな
大きくなったときには、背が高くなったときには、

うつぃなーいでぃ んまりる しゅゆい ぬーりゃ んまりる
沖縄に行くほどの人になりなさい、首里(宮廷)に上るほどの人になりなさい。

うつぃなーいでぃ ばんがうとぅ しゅゆい ぬーり くがにうとぅ
沖縄に行ったらわたしの弟よ、首里に上ったら黄金の弟よ、

からむむずぃ かいんみゃてぃ ぎたやすぃく かいんみゃてぃ
革草履を百十足買ってきてちょうだい、下駄を八十足買ってきてちょうだい。

からむむずぃ なかから ぎたやすぃく なかから
革草履百十足の中から、下駄八十足の中から、

ばぬんから いらばし あにんから いらばし
わたしから〔先に〕選ばせて〔ちょうだい〕、姉から〔先に〕選ばせて〔ちょうだい〕。

ばんがやーや ばんがうとぅ あにぬやーや くがにうとぅ
わたしの家はわたしの弟よ、姉の家は黄金の弟よ、

たうりやーどぅ やりゃまい ゆぶりやーどぅ やりゃまい
倒れかけた家だから、傾きかけた家だから、

にきんやーゆ ふきふぃーる すぃきんやーゆ ふきふぃーる
二間の家〔の屋根〕を葺いてちょうだい、四間の家〔の屋根〕を葺いてちょうだい。

うや ならば ばんがうとぅ しゅー ならば くがにうとぅ
親になるならわたしの弟よ、主になるなら黄金の弟よ、

ばがすぃまぬ うやなり あにすぃまぬ しゅーなり
わたしのシマを支配する親になってちょうだい、姉のシマの主になってちょうだい。

やどぅ とぅらば ばがうとぅ きた とぅらば くがにうとぅ
戸を立てるならわたしの弟よ、桁〔のある柱〕を立てるなら黄金の弟よ、

ばんがやーゆ やどぅとぅり あにぬやーゆ きたとぅり
わたしの家に戸を立ててちょうだい、姉の家に桁〔のある柱〕を立ててちょうだい。

守姉の子守歌《ふぁむれーユンタ》

守姉(もりあね)の子守歌。

守姉というのは10歳くらいの少女に乳幼児の子守りを頼むもの。沖縄や伊豆七島に見られた子守りの形態で、賃労働としての子守りではなく、擬制的な家族の形態をとった子守り。沖縄では守姉と守子の関係は実のきょうだいに等しい関係とされ、宮古・八重山地方では実のきょうだい以上に親密な情愛で結ばれるとされる。守姉は生涯にわたって守子を霊的に守護し、守子は生涯にわたって守姉にリスペクトを捧げる。


【凡例】
喜舎場永珣(1885-1972 )が『八重山古謡』上下巻に記した八重山の古謡(270編余)を、ほぼ出典に沿って訳している。1行目は原歌で、出典のカタカナ表記をひらがな表記にし、
ふりがなが振られている場合には漢字ではなくふりがなで表記している。囃子と人名についてはカタカナ表記にしている。
2行目は具志堅要による私訳。
八重山語の不詳の部分は、喜舎場訳を踏襲している。


ふぁむれーユンタ(登野城)

うるじぃんぬ サーユイサ 立ちょりば 若夏ぬ きよりば
うりずん〔の季節〕になったので、若夏〔の季節〕が来たので

じゅんぐにちぃぬ ちぃきぃぬゆ ばんちゃぬちぃじぃ ありようり
十五日の月の夜は、わたしの家のてっぺんまで〔お月さまが〕上がってください

とぅなぬかぬ ちぃきぃぬゆ ばがけーら あさびようら
十七日の月の夜は、みんなで遊びましょう

あまいけーどぅ あまいらり あさぶけーどぅ あさばり
歓(あま)えられるときにこそ歓えましょう、遊べるときだからこそ遊びましょう

はらまんけーどぅ あさばり ぶとぅむちゃんけーどぅ あまいらり
妊娠していないから遊ぶことができる、夫を持っていないから歓えられる

親ぬふぁゆ むりひゅうば しゅぬふぁゆ だぎゃひゅうば
親〔方〕の子を子守りしていたら、〔領〕主の子を抱いていたら

うでぃばやみ むりひゅうば かやばやみ だぎゃひゅうば
腕が痛むまで子守りしているので、かいな(二の腕)が痛むまで抱いたので

しぃんかきぃじょうじぃん なりおうり ふでぃぬしゅん なりおうり
墨書(書道)が上手になってちょうだい、筆の主(役人)になってちょうだい

うらぬしゅん なりたぼうり かしらしゅ なりたぼうり
蔵元(郡役所)の主に任命されて、〔最高官である〕頭主に任命されて

うらからぬ むどぅりんや 沖縄旅ん あたりょうり
蔵元からの戻りには、〔首里王府に上国する〕沖縄旅を拝命されてくださいね

いちゅぬ上から かりゆし ぬぬぬ上から かりゆし
〔船が穏やかな海上を〕糸の上から走るような平安な旅を、布の上から走るような平安な航海を祈ります。

おうでらかいしゃ かしらしゅ めーでーらやはさ はらぬしゅ
公事も立派に果たされた頭主は、宮内裏〔への仕え〕も首尾よく勤め終えた八重山の主は

沖縄からぬ むどぅりぃんや みよまいからぬ 帰りんや
沖縄からの戻りには、王の御前からの帰りには

むらにぬむんや きんゆかあでぃ だぎぃなーぬむんや 衣裳ゆかあでぃ
守姉へのお土産には着物を買っていこう、抱いている姉へのお土産には衣裳を買っていこう

はびる形ん 買いむちぃ かけじぃ型ん 取りむちぃ
蝶の模様〔の紅型衣裳〕を買い求めてきたら、蜻蛉の模様〔の紅型衣裳〕を取り求めてきたら

はびる型や ばなふしゃねぬ かけじぃ型ん くりやぬずまぬ
〔守姉が言うことには〕蝶の模様〔の紅型衣裳〕を私は欲しくはありません、蜻蛉の模様〔の紅型衣裳〕もこの私の望みではありません

かりゆしどぅ ばなふさりぃ 路かいしゃどぅ ぬずみうりぃ
〔無事に帰ってくる〕平安な旅こそが私の欲しかったもの、穏やかな航海こそが望みでした

喜舎場永珣『八重山古謡上巻』(1970年、沖縄タイムス社)

農事暦の歌《むぬちぃくりユングドゥ》

【凡例】

喜舎場永珣(1885-1972 )が『八重山古謡』上下巻に記した八重山の古謡(270編余)を、ほぼ出典に沿って訳している。
1行目は原歌で、出典のカタカナ表記をひらがな表記にし、ふりがなが振られている場合には漢字ではなくふりがなで表記している。囃子と人名についてはカタカナ表記にしている。
2行目は具志堅要による私訳。
八重山語の不詳の部分は、喜舎場訳を踏襲している。


むぬちぃくりユングドゥ(大川)

どぅゆうぬしちぃねー たーかいし
〔夏の〕土用の節には田を耕す

りっとぅぬしちぃねー まいだにうるし
立冬の節には稲籾を播種する

立春うーしぃぬしちぃに まいいべー
立春の雨水の節には稲を植える(田植えする)

ぼうしゅかーちーぬしちぃに まい刈り入れ
芒種・夏至の節には稲の刈り入れ

かんるぬしちぃねー むん作り
寒露の節には麦作り

冬至ぬしちぃねー あー作り
冬至の節には粟作り

若者ぬめーや 夜中ぬしちぃに 子作りようら
若者たちは夜中の節に子作りをしよう

百栄い栄やーろんゆー
百栄えに栄えようではないか

女子や あはり生りばん
女の子は美人に生れたら

中ぬ仮屋ぬ あんまかい選ばれ
中の仮屋(在番奉行の役所)の賄女に選ばれて

冥加しで果報し 世間から豊ゆまれ うんゆしれさり
冥加でこの上の無い果報をし、世間から羨望の的になる

喜舎場永珣『八重山古謡上巻』(1970年、沖縄タイムス社)

男女が逢引きをしあう歌《なさま屋ユンタ》

男女が互いの家を訪問し合う歌。最初は門口への訪問、次には裏座敷への訪問となる。裏座敷はヨバイや通い婚のために使用された部屋。

【凡例】
喜舎場永珣(1885-1972 )が『八重山古謡』上下巻に記した八重山の古謡(270編余)を、ほぼ出典に沿って訳している。
1行目は原歌で、出典のカタカナ表記をひらがな表記にし、ふりがなが振られている場合には漢字ではなくふりがなで表記している。囃子と人名についてはカタカナ表記にしている。
2行目は具志堅要による私訳。
八重山語の不詳の部分は、喜舎場訳を踏襲している。


なさま屋ユンタ(登野城)

なさまやぬ とぅんでぃなんが かぬしやぬ ぞうなんが
ナサマの家の飛び出し口(門)に、愛しい女の家の門口に

くにぶぎーば いべとぅし 香ばしゃぎーば 差しとぅし
九年母(クニブ)蜜柑の木を植えつけた、香ばしい木を挿してあった

うるじぃんぬ なるだら 若夏ぬ いくだら
うりずんの季節になったので、若夏の季節が来たので

花や白るさ さかりようり なりぃやあうさ くぬみようり
花は白く咲きほこり、果実は青く実っている

花折りば 名付きし みやらびやゆ 見りくうでぃ
花〔の枝〕を手折るのを口実に、乙女の家に行って〔逢引きの〕約束をしてこよう

なり折りば 名付きし やぐさや 見やくうでぃ
果実〔の枝〕を手折るのを口実に、少女の家で語りあってこよう

びらまぬやぬ あんたんが むりく花ぬ さかりんちょ
恋しい男の家の東側に、マツリカ(茉莉花、アラビアジャスミン)の花が咲いている

花折りゆ 名付きし びらまやゆ 見舞いしく
花〔の枝〕を手折るのを口実に、恋しい男の家に見舞いに行きましょう

みやらびやぬ 浦座に 大和扇ば 取り落とぅし
乙女の家の裏座に、日本製の扇を置き忘れ

うり取りかり取り 名付きばし みやらびやゆ 見やくうでぃ
それを取りに行くのを口実に、乙女の家で語りあってこよう

びらまぬやぬ 浦座に はなずみてぃさじば 取り落とぅし
恋しい男の家の裏座に、花染めの手拭いを置き忘れ

うり取り 名付きばし びらまぬやゆ 見舞いしぃな
それを取るのを口実に、恋しい男の家を見舞いに行きましょう

びらまぬやぬ 浦座に 玉ぬぶば 切り落とぅし
恋しい男の家の裏座に、玉の首飾りを切り落とし

うり取り 名付きし びらまぬやゆ 見舞いしくでぃ
それを結ぶのを口実に、恋しい男の家を見舞いに行きましょう

喜舎場永珣『八重山古謡上巻』(1970年、沖縄タイムス社)

本妻に窮地を救われた男の話《しゅりちぃユンタ》

 【凡例】

喜舎場永珣(1885-1972 )が『八重山古謡』上下巻に記した八重山の古謡(270編余)を、ほぼ出典に沿って訳している。
1行目は原歌で、出典のカタカナ表記をひらがな表記にし、ふりがなが振られている場合には漢字ではなくふりがなで表記している。囃子と人名についてはカタカナ表記にしている。
2行目は具志堅要による私訳。
八重山語の不詳の部分は、喜舎場訳を踏襲している。


しゅりちぃユンタ(大川)

しゅりちぃぬ ヨー はちぃぬふぁ ヨイサ みよまいちぃぬ ヨー とぅめぬふぁ
首里貴族の初の子、王朝貴族の末の子

ぴとぅりゃふぁどぅ やだそうぬ たぬぎゃふぁどぅ やだそうぬ
一人っ子であったそうだ、一粒種の子だったそうだ

あまぬ きむだかさん どぅぎゃぬ 色だかさん
あまりにプライドが高く、とても好色だった

ぴとぅりゃ妻 むとぅむな たぬぎゃ妻 むとぅむな
一人の妻では満足せず、独りの妻では満足せず

北ぬしぃま ばだりようり うふぁてふん うつりようり
北の島(石垣島)に渡り、大果ての国に移り、

みやらびば とぅめとぅり まむやまば とぅめとぅり
乙女のもとに通うようになった、可愛い娘のもとに通うようになった

きからぬ いふかざん ぱりきから むむかならぬけん
〔石垣島に〕来てから幾日も経たないうちに、来てから百日もならないうちに

しゅりから ぐゆしば みよまいから ぐゆされ
首里王府から御用命が下った、王の御前から御用命があった

きぃんやねぬ なうどぅしぃ ぐゆきんやねぬ いかどぅしぃ
着物はないがどうしよう、御用命〔を受け賜わる公式の〕服がないがどうしようか

ゆぬ道に むどぅりき ゆぬぺに 帰りき
〔本妻のもとへ通う〕同じ道に戻って行った、同じ足で帰ってきた

まんがから 入りぃまけ ましょうみから ぺーりまけ
真向かいからは入りにくく、真正面からの訪問はためらわれた

すばやかいぬ 入りばし なかやかいぬ ぺーりぃばし
〔仕方なく〕側の家から入って行った、茶の間の方から訪れた

あだららら 恥きぃさ じまぬ恥 くまきぃた
〔迎えた本妻が言うことには〕ああイヤな恥知らず、どんな恥を下げてここに来たの

いだららら ちぃらきぃさ じまぬちぃら くぬきぃた
ああ汚らしい鉄面皮、どの面下げてここに来たの

なせるふぁぬ くとぅ思い だぎゃるふぁぬ くとぅ思い
生まれた子のことを思い、抱いた子のことを思い〔来たんだよ〕

きぃんきしぬ ならなーき すでぃぬきぬ ならなーき
〔王の御前に出るための〕着物を着なければならないが、袖を抜かなければならないが

みやらびぬ しやるきぃんや まむやにす しやるきんや
乙女が織っている着物は、可愛い娘が織っている着物は

たちぃはたとぅ やゆりば さゆがしどぅ やゆりば
まだ機に掛けられている状態で、綛糸(かせいと)のままの状態なので、

きぃんきさし ふぁぬぶね 袖ぬかし むとぅぬす
〔この私に〕着物を着せてください子の母よ、袖を抜かせてください本妻よ

うふゆかに ぺり入り さしぃゆかに ぺり入り
〔本妻は〕奥座敷に入って行き、裏座敷に入って行き

ぱんぴちぃば はねあけ やふんがいば ちぃきぃあけ
半櫃の蓋を撥ねあけて、本櫃の蓋を突き上げて

かけじぃがた 出だしようり ぱぴるがた 出だしようり
蜻蛉模様の服を取り出した、蝶の模様の服を取り出した

きんきさしようり すでぃぬかしようり どぅかけぬ あまりんや
着物を着させてくれ、袖を抜かせてくれ〔と頼むと、本妻は〕身体に掛けたものの余りの服は

うら供に 持たしようり さなとぅむに だかしようり
あなたのお供に持たせなさい、傘持ちに抱かせなさい〔と言った〕

しゅり出でぬ むにやいぬ みよまい出でぬ 言葉ぬ
首里から帰ってから話すことには、王の御前から下がってからの言葉は

やぬ妻ぬ たきぃねーぬ むとぅぬすぬ しゃくねーぬ
家の妻ほどの〔ありがたい〕女はいない、本妻に匹敵する女はいない〔ということだった〕

喜舎場永珣『八重山古謡上巻』(1970年、沖縄タイムス社)

船材を伐採し貢納する歌《いぐじゃーまユンタ》

 この歌は山中での山桃採りの情景から始まり、途中で船材を伐採し、貢納する歌に変わる。

山桃は6月ごろに実を結ぶ。
山桃には石桃と水桃の2種類があり、水桃の方がおいしい実とされた。

【凡例】
喜舎場永珣(1885-1972 )が『八重山古謡』上下巻に記した八重山の古謡(270編余)を、ほぼ出典に沿って訳している。
1行目は原歌で、出典のカタカナ表記をひらがな表記にし、
ふりがなが振られている場合には漢字ではなくふりがなで表記している。
囃子と人名についてはカタカナ表記にしている。
2行目は具志堅要による私訳。
八重山語の不詳の部分は、喜舎場訳を踏襲している。

 

いぐじゃーまユンタ(石垣)

うふぬしぃた いぐじゃーま 石原ら下 子ぬびげ
大野(地名)の下のイグジャーマ、石原(地名)の下の子の父よ

うるじぃんぬ なるだら 若夏ぬ いくだら
うりずんの季節になったので、若夏の季節が来たので

やーぬびげーどぅ うはらす いぐじゃーまゆ みぐらす
家の父を〔山へ〕やった、イグジャーマを見回りに行かせた

むむやまぬ ゆやんどぅ たぶやまぬ ちぃにやんどぅ
桃山のためだよ、タブ(山桃の同義語)山のためだよ

むんぶらば ふぁぬびけ みじぃむんゆ ぶりようり
桃〔の枝〕を折るなら子の父よ、水桃〔の枝〕を折ってちょうだい

たぶぶらば いざまに あうずるゆ ぶりようり
タブ〔の枝〕を折るならお父さん、青蔓を折ってちょうだい

やまいらば ふぁぬびげー うはらやま いりようり
山に入るなら子の父よ、〔桃里ムラの北方にある〕ウハラ山に入りなさい

棚とぅらば ぎさまに 夫婦棚 とぅりようり
船材の板を取るならギサマニ(人名)よ、〔大木から〕二枚の板を取りなさい

やまざらし しや見りば やまざりぬ かいしゃ
〔伐採した大木を〕山〔の川〕に〔漬けて〕晒してみたら、山晒しの〔船材の〕美しいこと

ぬゆざらし 見りばどぅ ぬゆざりぬ ちゅらさ
野中〔の田圃の泥中〕に晒してみたら、野晒しの〔船材の〕きれいなこと

はまざらし しや見りば はまざりぬ かいしゃ
浜〔の砂に埋めて海水〕に晒してみたら、浜晒しの〔船材の〕美しいこと

さいふだあに ばだしようり てぃまさりやだーに ばだしようり
この船材を細工(大工)たちに渡した、手勝り(匠)たちに渡した

さいふだーぬ むにぬ てぃまさりやだーぬ くとぅばぬ
細工(大工)たちが言うことには、手勝り(匠)たちの〔交わす〕言葉は

たるがふぁぬ とぅる棚 じるがふぁぬ とぅる棚
誰の子が伐採した船材か、いずれの子が伐採した船材なのか〔という感嘆の言葉だった〕

ふぁぬびげーぬ とぅる棚 いぐじゃーまぬ とぅる棚
子の父が伐採した船材だよ、イグジャーマが伐採した船材だよ

棚とぅりぃぬ かいしゃ とぅる立てーぬ ちゅらさ
船材取りの美しさ、削り方の巧みさよ〔と船材を検査する役人たちに誉められた〕

かいしゃんで とぅゆまれ ちゅらさんで なとぅられ
美しさで賞讃され、巧みさで高名になった

喜舎場永珣『八重山古謡上巻』(1970年、沖縄タイムス社)

通い婚の夫を母に告げる歌《南きどぅユンタ》

 娘には夜毎に通う恋人がいたのに娘の母親がそれを知らずに、通う男もいないと娘をなじっていた。そろそろ母親に二人の仲を告げましょうと娘は男性にもちかける。

母親が娘をなじったのは、通い婚の男性は女性の実家にとって貴重な労働力であったから。母親が娘の許に通う男性がいることを知らなかったのは、配偶者の選択権が若者たちにあったことを物語る。

1925年に沖縄に赴任し沖縄の婚姻形態を調査した奥野彦六郎によると、近代以前の沖縄の社会では、母親の方が子どもたちの結婚に関しての主導権をもっていたようだ。

また部落の私生活においてノロ(祝女)や司などの女神官が今だに大きな力を持っていたし、各家においても男の家主(いきぐゎやあぬし)と並立的に女の家主(いなぐやあぬし)があって、結婚などの人事関係では、むしろ後者に主導権があった。男の家主がすべてを統制していたのではなかったのである。(『沖縄の婚姻史』)

この歌でも、母親と娘のやり取りが主なので、奥野の指摘を裏付けているように思われる。

【凡例】
喜舎場永珣(1885-1972 )が『八重山古謡』上下巻に記した八重山の古謡(270編余)を、ほぼ出典に沿って訳している。
1行目は原歌で、出典のカタカナ表記をひらがな表記にし、ふりがなが振られている場合には漢字ではなくふりがなで表記している。
囃子と人名についてはカタカナ表記にしている。
2行目は具志堅要による私訳。
八重山語の不詳の部分は、喜舎場訳を踏襲している。

南きどぅユンタ(石垣)

ぱいきどぅぬ ハイヤー しぃむきどぅぬ トゥンギャーラマ とぅんぎゃら ハイヤー世バナウル
南キドゥ(地名)の 下キドゥ(同義語)の、トゥンギャーラ(女性の名)は

トゥンギャーラぬ みやらびぬ 生りやよ
トゥンギャーラの乙女の生まれは

いみしゃから 親知らな ぶどぅむち
小さいときから親の知らない夫を持っていた

くゆさから あぶ知らな とぅぬかけ
幼いときから母親の知らない殿(恋人)がいた

なしゃるやぬ 抱ぎゃるうやぬ いずすや
生みの親が、抱いて育てた親が言うことには

むにやかじぃ ぶどぅやねぬ んざでどぅ
話のたびに夫がいないと罵られた

事ぬかじぃ 殿やねぬ んざでどぅ
ことあるごとに殿(恋人)がいないと罵られた

あにやいざれ あくゆまれ にたさや
あんな風に言われ、イヤな小言を聞かされた腹立たしさに

前ぬ家ぬ 加那びら なせ行き
前の家の加那さんの許に駆けつけて〔こう言った〕

起きょうりうけ いざばしぃき 加那びら
起きてちょうだい、私の言うことを聞いてちょうだい、加那さん

ばが親ぬ なせるやぬ いずすや
私の親が、生みの母が言うことには

むにぬかじぃ ぶどぅやねぬ んざでどぅ
話のたびに夫がいないと罵られる

事ぬかじぃ 殿やねぬ んざでどぅ
ことあるごとに殿(恋人)がいないと罵られる

あにやいざれ あくゆまれ うらるぬ
あんな風に言われ、イヤな小言を聞かされてはたまらない

親知らし あぶ知らし 加那びら
〔二人の仲を〕親に知らせましょうよ、母に教えましょうよ、加那さん

喜舎場永珣『八重山古謡上巻』(1970年、沖縄タイムス社)